選択的夫婦別姓と保守自由主義

今から2年ほど前、私が政治に関心を持ち始めた頃、私は選択的(夫婦)別姓には反対だったと思う。はっきり言って覚えていないのだが、当時は、自由民主党の青山繁晴議員の発言をよく聞いていたのでそうだろうと思う。その後、昨年11月の大阪都構想をきっかけに自由主義に目覚めて、私の思考にも徐々に変化が訪れた。

そこで、久しぶりに選択的別姓について考えてみようと思う。この記事では、独立行政法人経済産業研究所(RIETI)に掲載されている、山口一男教授の論文『選択的別姓問題と個人の自由の価値』を参考にしている。この論文では自由主義の観点から選択的別姓について論じられている。

結論から申し上げれば、そもそも夫婦同性は日本の伝統ではないのだが、そんなことよりも自由主義の観点から選択的別姓は認められなくてはいけない。他人の選択を許容することが我々には求められている。

パレート改善的制度

パレート改善的制度とは、その制度により誰も損をするものはなく、少なくとも一人以上の人が得をする制度を言う。選択的別姓制度の下で、夫婦同姓を選好するものは同姓にできるので損はなく、別姓を選好するものは別姓にできるので得をする。さらに前提として他の夫婦が別姓を選ぶか同姓を選ぶかは負の外部性を生まない選択であるとの仮定がある。負の外部性がないという意味は、他の夫婦は個々の夫婦が同姓を選ぼうが別姓を選ぼうが、損害を受けないということである。選択的別姓はこれらの条件が皆満たされるので、パレート改善的制度と見なされるのである。

そもそも、パレート改善とは経済学の概念で、経済学ではこのパレート改善が望ましさの基準になる。これ以上誰の効用も下げること無く誰かの効用をあげることが出来ない状態(パレート最適)が経済学では最も望ましいのだが、そのような選択肢は無数にあるので経済学では社会的な望ましさに答えることが出来ない。

このパレート改善的制度という言葉は、日本では馴染みがなく、わたしも(政治哲学については大して勉強していないとはいえ)本論文で初めて聞いたが、山口氏によれば、「米国では自由主義的哲学(あるいは功利主義哲学)の基礎概念であり、例えば米国で政治哲学に大きな影響力をもったジョン・ロールズの『正義論(1971)』もパレート最適性を一つの判断基準」としているという。

選択的別姓は、このパレート改善的制度に当てはまるので認められなくてはいけないことになる。ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』では、他人の自由を侵害しないあらゆる行為が認められるべきだとされている。他人の選択に口を出す権利はいかなる人も持ち得ていないのだ。

先述の『選択的別姓問題と個人の自由の価値』では、この後に「夫婦同姓が日本の伝統文化である」や、「選択的別姓が家族の崩壊を招く」と言った選択的別姓への反論を論破しているが、そもそもこのような思想が出てくる原因を氏は次のように分析している。

選択的別姓を個人の「わがまま」だの「自分勝手」だの、欧米から見れば自分が損害を受けないのに他人の選択の自由を制限しようとする意見が国民の一部から表明されることも、個々人の幸福を超えた「共同体秩序」を強調する日本の保守思想の影響があるからだと考えられる。

その上で、このような思想が日本を長期停滞させており、その改善手段の一つとして、「パレート改善的な制度を押し進め、人々の自由と選択の幅を拡大することで多様性を増やし社会的活力を増大させること」が重要であるとしている。

日本に自由主義が根付いていない理由

以上を踏まえた上で、私は日本に自由主義が根付いていない理由を次のように考える。古来、欧米諸国では王朝は支配階級であった。そのため、欧米では、庶民は王朝による収奪からの解放を目指した歴史がある。

一方で日本の王朝である皇統は支配階級ではない。象徴天皇制ができるずっと前から日本の王朝は象徴だった。そのため、日本人は古来から自由を抑圧された経験がない。それが欧米のような自由主義が日本に根付いていない原因ではないだろうか。

例えば、アメリカでは共和党保守派といえば自由主義者のことを指す。彼らは国家権力による個人の活動への介入を許さない。しかし、日本の保守派の中には、異常な財政支出を求めたりする社会主義者のようなものも多く存在しており、自由主義者はほとんど少ない。左派はいうまでもなく自由とは真逆にいるので、実質日本にはほとんど自由主義は存在していない。

まとめ

以上をまとめて私は次のように考える。日本では左派が圧倒的に熱心にこの問題について取り組んでいるが、それはたんにアイデンティティポリティクスをしているだけだ。そもそも社会主義は個人の選択の権利を奪うことで成り立つものであることは今さら言うまでもない。つまり彼らのやっていることは矛盾している。

そう考えると、選択的別姓を含めて、個人の権利を拡大させていくような政策を進めるべきはむしろ保守の側ではないだろうか。伝統を守るためには、柔軟に社会制度を変えていかなくてはいけないのである。最近では保守自由主義という思想が徐々に浸透してきている。この動きを進めていかなくてはいけない。