あらすじ
生誕百年を記念して刊行する世界的ロングセラーの新装版。経済における自由の重要性をわかりやすく訴え、小さな政府、規制緩和といった政策の実現をとおして現代世界を変えた「革命の書」。
感想
『資本主義と自由』と並ぶミルトン・フリードマンの大著は、非常にわかりやすく、相変わらずいまの日本のことを言っているのかと錯覚するほど現実を反映している。政府による介入がほとんどのケースで失敗するという現実をわれわれは認識し、自由主義経済を再構築しなければならない。
備忘録
どんな政府による介入が提案されるにしても、それがどんな利益と費用をもたらすことになるかを、つねに調べてみる習慣をこしらえあげ、政府による政策が採用されるのに先立って、それが発生させる費用や悪い影響よりは、はっきりと利益のほうが大きくなるということを明らかにするようにしなければならない。ここで、このような一連の手続きを確立しなければならないと提案している理由は、政府による介入が発生させる隠れた悪影響を査定するのが困難だからというだけでなく、他にも考慮に入れなければならない事情があるからだ。すなわち過去の経験にしたがえば、どんな活動でも、政府がいったんこれをはじめてしまえば、廃止されるのはごくまれであるという事情だ。
こんな当たり前のことが日本でなされていない。英国では「The Green Book」と呼ばれる影響評価書が作成され、規制の経済的な費用と便益が計算されている。第一、規制の影響を評価せずにいかにして必要だと示すのか。
不公平というのは、非常に多くの形をとって現れるものだ。債券、株券、住宅、工場といった財産に対する相続権という形で、この不公平さが現れるかもしれない。また、音楽的な才能や肉体的な能力、数学的天才ぶりといった才能の遺伝という形で、不公平さが出現することもある。財産の相続に対してのほうが才能の相続に対してよりも、はるかに容易に政府の政策によって介入することができる。しかし、倫理的な観点からみて、これらのふたつの異なった種類の相続の間に、いったいほんとうの違いがあるのだろうか。ところが多くの人びとは、財産には恨みを抱くのに、才能の遺伝に対してはそうではない。
同じ問題を両親の観点から考えてみよう。両親が子供のために高い収入を確実なものにしてやりたいと望めば、両親はいろいろな方法でそれを行うことができる。両親はその子供に、将来高い所得をもたらす職業に就けるような教育を準備してやることもできる。あるいは俸給生活者よりももっと高い収入を得られるように、子供のために企業をつくってやり、経営者として活動できるようにしてやることもできる。また、なんらかの財産を残してやって、その財産からの所得で子供がよりよい生活を送れるようにしてやることもできる。さて、両親が子供のためにその財産を使うのに、このような三つの異なったやり方の間で何か倫理的な違いがあるだろうか。また、国が徴税したあとで手許におカネがまだ残ったとして、暴飲暴食に使うのは国が許してくれるけれども、子供のために残すことは国が許してくれないといったことが、ほんとうに許されるべきことだろうか。
ここでの問題に関連している倫理的な論争点は、微妙で複雑だ。この論争点は、「すべての人に公平な分け前を」といったような、単純至極な公式によって解決できることではない。まったくのところ、「すべての人に公平な分け前を」という主張を真剣に受け取らなくてはならないとすれば、音楽的才能に劣った子供に対しては、遺伝によって発生した不利益を補充してやるために、より多くの音楽教育訓練を与えてやらなくてはならないだろう。また逆に、大きな音楽的才能に恵まれた子供に対しては、よい音楽的訓練が受けられないように、そのような機会の発生を阻止すべきだろう。これと同じことが、その他の遺伝的能力についてもあてはまらなければならない。このような方法をとれば、才能に欠けている子供に対しては、「公平」なやり方になるだろう。しかし、このやり方は、才能ある子供にとっても「公平」だろうか。それに、才能に欠けている子供の訓練のため、その費用を稼ぎ出そうとして働かなければならなかった人はどうか。また、恵まれた才能を磨き上げることによって、発生しただろういろいろな利益を手に入れる機会を奪われた人びとはどうだろうか。
政府による介入で平等を担保しようとする社会主義者の理想には賛同するが、では実際に平等を達成することができるのか、そもそも“平等”とはなんなのかということを、現代の日本人はあまりにも考えていない。
社会に対して有効な改善を達成することが不可能だということ(中略)ではない。(中略)改善に成功するためには、そこで発生している非効率生や浪費についてただたんに担当官僚を非難してみたり、彼らの動機を問題にしてみたり、もっと良い仕事をしろと要求したりする代わりに、政府官庁の行動を支配している政治的諸法則を考慮に入れることが必要だ。
政治を見るときに、理論ではなく政治のリアルを考慮に入れなくてはいけない。これは渡瀬裕哉氏もたびたび言及している。
国による干渉、とりわけ立法という形での干渉がもたらす影響は直接的であり、直ちに効果を表すものであり、いわば目につくものでもある。これに対して国による干渉がもたらす悪い影響は次第にしか発生してこないものであり、間接的なものであり、人びとの目にふれないところに存在している……。こうして多くの人びとは必然的に政府の干渉を不当に大きな好意をもってながめることになってしまうのだ。
フランスの偉大な自由主義経済学者フレデリック・バスティアは、1850年に出版したエッセイ『That Which Is Seen and That Which Is Not Seen:見える物と見えない物』の中で、まさにこのことを指摘した。国民は特殊利益団体の宣伝に騙されず、絶えず見えないものを見る努力を重ねる必要がある。
結び
日本に暮らすわれわれは、決して絶望してはならないと思う。世の中には独裁国家に生まれ、選択の自由など取り戻しようもない人が何億人もいるのだ。
幸にしてわれわれは、一人の人間としてまだ選択の自由をもっている。つまり政府が巨大化するという、これまでと同じ道を唯々諾々として歩んでいくのか、それともここで立ち止まり、方向を転換するのか、そのどちらをとるかという選択の自由だ。