ジョン・スチュアート・ミル『自由論』を読んで

あらすじ

個人と社会が絶えず活力を保ちながら向上していくには、自由と多様性が欠かせない。この前提に立って、大衆の画一的な世論やエリートの専制が個人を圧殺する事態を憂慮したJ.S.ミル(1806‐73)は、自由に対する干渉を限界づける原理を提示した。現在もなお自由を考える際に欠かすことのできない古典的名著の明快かつ確かな翻訳。

感想

わたしにとって自由主義の三大古典の3冊目であった今作が一番難解であった。しかし、理解できないほど難解なわけではなく、集中して読めば凡人にも読み進めることができる。『隷属への道』や『資本主義と自由』に比べると随分と時間を遡るが、自由の本質的な価値を扱っており、決して古さを感じさせるものではない。第5章「応用」では、実例として教育と地方自治について言及されており、これは現在の日本にも十分に通用する議論である。

備忘録

人類の精神的幸福にとって、意見の自由を表明する自由が必要であること(中略)には、それぞれ異なる四つの根拠があった。第一に、ある意見が沈黙を強いられているとしても、その意見は、もしかすると真理であるかもしれない。(中略)第二に、沈黙させられている意見は誤っているとしても、真理の一部を含んでいるかもしれないし、そうであるのがごく普通のことである。また、広く受け入れられている意見や支配的な意見は、どんな問題に関する意見であっても、真理の全体であることはまれであり、まったくそうでないこともある。したがって、真理の残りの部分を補う可能性を与えるのは、対立する意見の衝突だけである。(中略)

第三に、たとえ、受け容れられている意見が真理であるばかりでなく、真理の全体であったとしても、活発な論争が許されず、実際にも、そのように論争されていなければ、その意見を受け容れているほとんどの人々は、意見の合理的な根拠を理解したり感じ取ったりすることが少しもないまま、偏見の形でその意見を信奉することになるだろう。そればかりでなく、さらに第四に、主張の意味そのものが失われたり弱まったりして、性格や行為に対する生き生きとした影響力を失う危険が出てくるだろう。

これが自由の本質的な価値の簡単な説明である。これは思想の自由以外のあらゆる自由にも通じる議論である。

本人の性格ではなく、伝統や他の人の習慣が行為のルールになっている場合は、人間の幸福における主要な要素の一つであって個人と社会の進歩のまさに第一の構成要素でもあるものが欠けているのである。

これが今の日本にとって最も大切な価値観であることは言うまでもない。以前紹介した、『選択的別姓問題と個人の自由の価値』で言及されている通り、我が国の保守派にはこの思想が全くない。そのため、選択の自由を奪うことで成り立つ政治を目指す社会主義者が、先頭に立って選択的夫婦別姓を主張する状況になっている。

まとめ

本書は次のような言葉で締め括られる。我が国を愛するすべての国民が胸に刻まなければいけない。

個人の精神的な拡大や向上という利益を後回しにする国家、有益な目的の場合であっても個人を国家にとって最も順従な道具になるよう自国民を矮小化する国家は、こう思い知るだろう。矮小な人物は実際のところ偉大なことは何も達成できない。国家が全てを犠牲にして求める統治機構の完全さなどというものは、機構をもっと円滑に動かそうとして国家が取り去ってしまった活力の欠如のために、結局のところは、何の役にも立たないのである。